和歌山城
徳川御三家の居城。八代将軍の吉宗以降、十三代将軍慶福まで、紀州徳川家から将軍を出した。初代の頼宣は家康の十男だから、随分末端のような気がするが、とにかく中・後期徳川幕府を担うことになった。
城は豊臣秀吉が弟秀長に命じ、藤堂高虎に担当させて1585年から築造が始まった。1619年に徳川頼宣の居城として大規模に整備されたとのこと。建築が40年以上に渡って続いたので、素人目にも違いが分かる。徳川御三家の居城なので、規模も大きいのだろうが、同じ徳川御三家の居城、名古屋城とともに、第二次世界大戦の際に空襲により大部分が焼失、昭和33年にコンクリートで再建された。現在再建するならば、昔の形や構造を忠実に再現するのだろうが、当時の荒っぽいやり方なので、趣があるのは外観のみ。
天守閣。外観はとても立派
櫓などもカッコ良い
が、天守閣の雨戸は鉄のスライド式。後で下から天守を振り返って見ると、確かに不自然な窓だ。30年代のコンクリートが劣化し鉄筋が錆びてコンクリートを割り始めている。
子供が「学校の階段と同じ」と叫んでいた。まさに古いコンクリート校舎の階段そのもの。これが天守閣の階段なんだから興ざめ。
天守の石垣は緑色片岩(圧変成岩類)。和歌山城は中央構造線のすぐ南に位置しているから、おそらくは三婆川帯の中。この岩は城山の構成物だろうと思う。江戸時代に熊野古道の各王子跡に、紀州徳川家によって石碑が建てられたが、その石碑は全て緑色片岩だった。あの岩は和歌山城周辺から集められたものだったのか?
石垣はやたら傾斜が緩いと思いませんか?石も小さいので登りやすそう。これで役に立つのか?
と思ったら、門の周囲の石垣はかなり急立したもの。これならば見慣れた石垣と同じ。
ちなみに、この門だけが江戸時代からのもの(1621年)。他の建物は全て焼失し、昭和30年代以降に再建されたものだそうな。
急立した石垣は凝灰質砂岩。個々のブロックも大きいので、これならば登りにくいだろう。
緑色片岩は割れやすく大きなブロックは出来ない。そもそも石材として方形に切り出すことが出来ない。ので、実戦に強い石垣は造れない。から、わざわざ遠方から石を切り出して運んできた。のだろう。初期に創られた本丸の石垣は、手軽に足下の石を組んで創られた。が、石垣としての効用は弱い。江戸時代になって御三家の居城として金と時間をかけて整備した証拠。
見事な庭。なんたって徳川御三家の居城ですから。
庭石も当然、緑色片岩。緑色片岩は今でも庭石としては人気。城の石垣には向かないようだけど。
モミジは未だ青々していましたが、秋になればさぞや美しいかと思う庭です
天守閣から紀ノ川河口を望む。淡路島が見える(写真では分かりにくいかとは思うけど)